- 寺内のご案内
境内の地図
善寿寺の
各ご神仏さまについて
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善寿寺ご本尊
慈母観世音菩薩様- 御真言-ごしんごん-
- おん・あろりきゃ・そわか
善寿寺のご本尊仏、慈母観世音菩薩様は、赤子を抱いたお姿で、すべての民をわが子とする大慈悲の精神で、衆生済度、現世利益の誓いを示しておられます。
善寿寺は、もともと1590年頃書写山圓教寺で15年間修行された法悦信道大和尚が自ら刻んだ「慈母観世音菩薩」を本尊とした小さな庵を建てたのが始まりと伝えられています。しかしある時、諸問題で逃げ込んだ夫婦をかくまい、それを追ってお寺に闖入してきた侍の暴徒によって慈母観音様が叩き割られてからは、本尊様の無い時代背景が残されています。時は経ちいまから約200年前、正厳悟宗大和尚が自ら持たれていた念持仏、十一面観世音菩薩様をご安置し、善寿寺のご本尊として再建されました。いまの善寿寺の基盤を築いた15世大原弘盟が入山した頃、激しく損傷されていた慈母観音様を須弥檀床下より発見し、昭和50年(1975)5月5日、永平寺第72代管主宮崎奕保ご来寺のもと、慈母観音像の復活・入佛開眼大法要を厳修し奉りました。以降、当寺のご本尊を慈母観音様、位牌堂のご本尊として十一面観音様をお祀りしています。
慈母観音様は、母が子に対して向ける温かい「慈しみの心」で私たちのことを見守って下さっています。お参りの際は、赤子が泣いて母にすがるかのように、心の底からの本心で訴えてください。母が子に示すように必ずやその願いに応えて下さります。
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南無福徳金龍大善神
- 御真言-ごしんごん-
- おんめい・きしゃしゃに
・えい・そわか
龍神様は『龍神祝詞』で示されているように「大宇宙の根源の御親の御遣い」で、神界、仏界を通して、お働きになり親しまれています。善寿寺ではご本尊である慈母観音様の鎮守として鎮座されています。
龍神様が善寿寺にご降臨いただきましたのは昭和32年(1957)12月8日のこと。小豆島・弘法の滝で、身も凍えるほどの滝つぼの中で一心不乱に経文を唱え続けていた歴住の前に叉迦羅龍王(ルビ:しゃがらりゅうおう)が現れ「我は八大龍王の分身なり。叉迦羅龍王の分身なり。仏法を守護し山門を擁護す、一切衆生を利益せんがために、汝の寺の鎮守とならん。12月8日、我を迎うべし」とお告げを授けられました。ただちに善寿寺境内地に龍神堂を建立し、近畿最高峰「弥山」より龍神様を勧請しお祀りしたのが始まりです。
以来「南無福徳金龍大善神」と称し、衆生済度の御神力を頂き、たくさんの方々にお参りいただき、特に毎月8日の大祭では龍神様による柴燈護摩・火渡りでの法要では数多くの参拝者がご縁頂いております。長年の祈祷に伴う堂宇の老朽化は避けられずに居ましたが、令和2年には多数の信者様の慈悲心を得て、装いを新たな堂内に設けた石造りの須弥壇に、改めて龍神様の御霊を勧進し念願の龍神堂の再建を果たしました。
龍神様の通力は先見力と障害打破。先を見る力で未来を導き、さまざまな私達の悩みや不安を食べて消滅すと云われ、家運隆盛、商売繁盛、心身健全、罪障消滅などのご利益をお示し下さいます。また、龍神堂の脇にある地下11mからの湧き水「龍神水」も、ご神水として多くの人に喜ばれています。
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親子地蔵尊願王大菩薩
- 御真言-ごしんごん-
- おん・かーかー
・かびさん
・まー・えい・そわか
善寿寺にお祀りされている親子地蔵尊は、前住が亡き母の菩提を弔うだけでなく、世界国中の邪道に堕ちた霊をことごとく救済するために勧請したお地蔵様です。前住の決意は固く、一年半かけて毎晩歩いて托鉢にまわり、10,026名もの方々のご血縁によって親子地蔵様をお迎えすることができました。
地蔵菩薩は「一切衆生済度の請願を果たさずば、我、菩薩界に戻らじ」との決意で、六道(地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道)を行脚して救われない衆生を救済してくださる仏様です。特に、幼くして亡くなった子どもの霊を救い(水子地蔵)、そして子を想う親の苦しみを救って下さることから(子安地蔵)、日本中で厚く信仰を集めています。
親の子への愛はなによりも深いものがあります。また、子どもは母の真心に応えて歩まなけければなりません。人間として生まれた以上、親のいない子はいません。親子地蔵様は親子関係での現世利益や衆生済度に大きな力を与えて下さります。家内安全、成長祈願、親子円満、などを祈願されたい方は、どうぞ毎月23日に執り行われます地蔵大祭にお参り下さい。祈願用の「人がたの紙」や先祖供養・水子供養に用いる「地蔵塔婆」で焚き上げ供養が厳修されております。
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南無水子地蔵尊
- 御真言-ごしんごん-
- おん・かーかー
・かびさん
・まー・えい・そわか
善寿寺に水子地蔵様がご安置されたのは、昭和51年3月23日のことです。水子の供養で悩んでいる砂川村の人たちや善寿寺の信者様から、水子地蔵様をお祀りしたいと声が挙がり、菩提勧請いたしました。
古来より、原因不明の病気や家族間の行き違いなど水子が供養を訴えているからだと伝えられたとございます。先祖供養はするものの、肉体を持たない水子の魂への供養はおざなりにされがちです。水子には肉体がないため念という執着だけが残ります。その水子たちに肉体性を与えてくださるのが水子地蔵様なのです。お茶やお菓子を供えられ、顔をさすられ情を受けた時「人間としてこの世に生まれ父母の愛情に触れた時」そこではじめて「早く生まれ変わりたい」という目標・希望が芽生えます。この自立心こそが菩提心へとつながっていきます。
自分の家系には先祖代々のうちのどこに水子がいるか分かりません。あなたの代ではなくとも、どこかに浮かばれない水子の魂がいるかもしれません。知らずして水子になってしまったという因縁が私たちの人生に強く影響を及ぼします。家庭平安の為にも幼児・稚児・水子の霊位や過去に残され供養出来なかった方は、どうぞ23日の水子地蔵大祭にお参り下さい。
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大黒天
- 御真言-ごしんごん-
- のうまく・さまんだ
・おんまか
・きゃらや・そわか
昭和51年7月3日の午前4時。前住大原弘盟の夢の中に大黒天が現れ「我は、書写を開いた性空上人の刻まれた大黒天ぞ」と告げて、前住の手を握りました。その夢が示す通りに書写山に上ってみると、奥の院の不動堂の中に汚れ朽ちた大黒天が置いてありました。これをご縁に四国の高名な仏師・上野俊之師に刻んでいただいたお仏像を勧進させていただいたものが善寿寺の大黒天です。
大黒堂にご安置させていただく際には、大黒様の真下に法華経二十八巻を一字一石書写した写経石を埋蔵させていただいております。石集め、お清め、そして写経と、すべて信者の方のお力で成し遂げられたものです。さらに、年六回の縁日では般若心経を千巻読み上げてご供養しています。
大黒天は、七福神の中で打出の小槌を持つ神様として親しまれています。もとはヒンドゥー教の破壊神シヴァの化身で、破壊と戦闘の神であるマハーカーラが前身とされています。日本では不動明王様の化身であり、また大黒様の化身として堅牢土地神がおられます。昔の人は土地を愛し、土地を大切にしてきました。母なる大地から作物が育つことで、家が潤い、家内が上手くいき、こうして大黒様の信仰ができていったのです。
善寿寺の大黒様には智慧をさずけるという教えがあります。智慧とは本質を見抜く力のこと。家庭円満や商売繁盛の祈願には、本質を見抜く力(=智慧)が必要です。年末に執り行われる「大黒様納め」には、記念に金箔小判が授与し、たくさんの方がそれを求めてお参りに来られます。
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天河辨財天秘宝の大曼荼羅
- 御真言-ごしんごん-
- おん・そらそば・
ていえい・そわか
辨財天様は、もともとは川の清らかな流れを神格化した古代ヒンドゥー教の女神「サラスヴァティー」で、日本では水の神様、さらには音楽や芸能、金融や商売の神様として信仰されています。日本における辨財天様の聖地は奈良県吉野にある天河大辨財天社。仏教伝来以前より古代民俗信仰の発祥の地である霊山大峰山を開いた修験道の祖、役行者によって創建された霊験あらたかな神社です。
善寿寺には、その天河辨財天に1170年もの長い期間保管されていた大曼荼羅が祀られています。第65代宮司・柿坂神酒之祐氏が、虫食いで破損がひどかったものを、のちに国宝になるようにと、東京から一流の仏師を招いて1年間高野山の宿坊に篭って復元いたしました。そんな大曼荼羅を辨財天様のお示しとのことで、善寿寺にお授け下さったのです。ありがたく拝受したのが昭和59年5月5日。以降その日は、ご本尊の慈母観音様やご眷属の二十八部衆様とともに、年に一度の御開扉の日として、善寿寺の一番の大きな法要となっております。
大曼荼羅様のご神意に従って、長らく離れの床の間にお飾りしていましたが、令和2年の龍神堂の完成に伴い「衆生の前に姿を表す」とのお導きがあり、現在は龍神堂内の祭壇に秘仏としてお祀りさせていただいております。
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若宮弁財天(天河辨財天分魂)
- 御真言-ごしんごん-
- おん・そらそば・
ていえい・そわか
天河辨財天様より大曼荼羅を拝受したのち、さらに柿坂宮司様より分魂をしていただいたのが若宮弁財天様です。善寿寺にお参りのみなさまを迎え入れるよう、山門入ってすぐの池にご鎮座していただいております。
弁財天様は古代インドの水の神様を起源とし、弁舌才知、芸術芸能、そして金融商売の神様として厚く信仰をされています。健康で美しく、愛想よく徳に溢れ、流麗な音楽を奏でて舞を踏む。このようなすべての力を持って願をかけて下さいるのが弁財天様です。どうぞご来寺の際は、若宮弁財天様をお参り下さい。
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弘法大師・空海
- 御真言-ごしんごん-
- 南無大師遍照金剛 なむだいしへんじょうこんごう
善寿寺本堂の玄関脇には弘法大師様の仏像がお祀りされています。善寿寺とお大師様とのご縁は大正4年にまで遡ります。お大師様を厚く信仰していた砂川の村人たちによって善寿寺の入り口に子安大師として祀られていたのが始まりです。
現在の青銅の大師像が鎮座されたのは昭和49年。ご本尊・慈母観音様を勧請する前年のことです。前住がご本尊勧請のために1年間の行に入られていた時、原因不明の足の痛みに襲われた期間がありました。寺内にお祀りしていた子安大師様が倒れ、右足と錫杖が折れてしまっていたのです。しかし「汝の身代わりになったぞ」というお告げとともに前住の足は快癒したことから、急いで高野山から青銅の大師像をお招きし、無事に翌年のご本尊勧請式を執り行うことができたのです。
このような、大変ありがたい由緒のある弘法大師様。以降、善寿寺本堂をお参りのみなさまを守り続けて下さっています。
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砂川古墳
- 御真言-ごしんごん-
- 南無和光明神 なむわこうみょうじん
善寿寺境内には歴史ある砂川古墳があります。五色の吹流しとなだらかな墳丘は善寿寺のシンボルとなっています。
砂川古墳に祀られているのが和光宮(ルビ:わこうのみや)。大化の改新の頃を生きた京都の豪族の長の娘です。古い記録によりますと、父が娯楽で殺生を楽しむような人で、その因縁が和光宮の身体に蛇のあざとして出ました。不憫にも都の噂となってしまったため、母の里である出雲に移り住むこととなったのですが、乳母とともに向かっている最中に19歳の若さで砂川の村で息を引き取りました。砂川古墳は、和光宮の兄君が妹を憐れみて造立したものだと言われています。
善寿寺としては砂川古墳こそが善寿寺発祥の根源と考え、丘上には石碑を建立し、和光宮を大切に供養し、古墳をお守りしております。